先日、飛行機に乗り遅れてしまった話は書きましたが、そのとき、何をしにどこに行ったかというと、日本災害復興学会京都大会で「シンポジウムをやるので、登壇してほしい」ということで行ってきました。シンポジウムというより、研究会だったのですが、それはそれで面白い企画でした。
ところで、「黄檗」って読めます?「おうばく」と読むそうです。さすが京都、すごい地名があるなと感心しました。
こんな会場で、研究会のテーマは「みやぎボイスとは何かを考える」だそうです。震災復興シンポジウム「みやぎボイス」を10年以上継続していますが、それの意義について研究しよう、という研究会が立ち上がるようです。災害復興学会もすごいことをテーマにするなあ、と少し驚きました。でも本当に有難いです。
実は、この写真のうしろの一列は、うちの父や妹ふたり、大阪に転居した長女に占められています。私が京都に行く機会に、せっかくだからみんなで食事でも、という趣旨です。
孤独死研究で有名な田中正人先生からは『「話がかみ合うことが重要ではない」というみやぎボイスの主旨を最初に聞いた時には、一体何を言っているのか!!』と不思議に思ったようです。まあ、実際にそうですよね。言われてみると「話がかみ合うことが重要ではない」って、なに言ってんのという感じです。田中先生の発言には、会場からもどよめきが起こっていました。
父の満州の記憶
ところで、今回の京都行にはもうひとつ、大きな目的がありました。
父親が「満州での幼少期の記憶」をまとめた本『増補版 少年の眼に映った満州 鞍山・七嶺子村の出来事』を読んだという方から、手紙が来、その方Fさんと会うことになったので、ちょうどその日程を、この京都行に合わせていました。その方はうちの父親より5歳ほど上の女性で、実は父の通った「曙小学校」という満州鞍山の小学校に通っていたそうです。鞍山は当時、満州鉄道の大きな製鉄所のあった町で、父は5歳のころに家族と一緒に日本から移住し終戦まで居たそうです。
父より5つ上だけあって、当時のことを鮮明に覚えていて、鞍山に初めて空襲があったあと、曙小学校の先生たちが多く亡くなったそうです。それまで戦争がどこか遠い国のことように思えていたのに、その空襲で空気が一変したようです。そのあと、生き残った先生方が「生き残ってしまったのが申し訳ない」と何度も言っていたんですって。
その方も高齢になってから、自分の経験したことを書き残さなければと思い、いろいろと書き残しているそうです。
「焼肉特急のエースアルバイター」である長女も、少しだけ神妙な顔つきをしていました。
京都から帰り、生活も平常に戻ったころ、父から急に電話がありました。曙小学校の先輩であるそのFさんから手紙が来て、以下のようなことが書いてあったそうです。
- 満州の時からずっとつきあいのある、一つ年上の友人がおり、ずっと文通を続けていること。
- 父と会った話をその方に書き送ったところ、興奮気味な文面で、次のような返信が来たとのこと。
- 曙小学校の同級生で「手島さん」という女性がいたのを覚えている。また、その母さんが日本舞踊の名手で、踊っているのを見たことを覚えている。
まさに、うちの父の姉の同級生だったようです。父の母は日舞の名手で、戦後の混乱期はその日舞を教えながら生計を立て、子育てをしたそうです。うちの父親もそうして大学まで出してもらったそうです。うちの父親の喜びようったらすごいものがありました。
こんな話ばかりだと申し訳ないので、現場の進捗をご報告いたします。
m(__)m
社会福祉法人法人あいの実新施設、アウトドアカフェ
社会福祉法人法人あいの実には、見晴らしの良いアウトドアカフェが用意される予定です。
サービス内容もいろいろと面白いことを考えているようで、名物スポットになるのではと今から期待しています。建築的にももっといろいろな仕掛けを用意しています。
コスト縮減もあって、この施設では、木毛セメント板を多用しています。
前の「社会福祉法人あいの実拠点施設・クランベリー」でも結構好評だったので、空間的シンボルとして使用しています。
先日の「川辺のリノベーション」で使った木毛セメント板と少し違い、こちらは白ペンキで塗装してあります。
すこし「白樺」っぽい静謐感があるようで気に入っています。
福祉施設でこういう素材を使う事例はほとんどないようです。
先日完成したプロジェクトでは、同じ木毛セメント板を使ってもこんな感じだったので、雰囲気が全く違いますよね。
T島